2008年

ーーー10/7ーーー 冬支度

 我が家の暖房は、石油ストーブと薪ストーブを併用している。普段生活をしているスペースでは、その便利さから石油ストーブを使っているが、来客室は薪ストーブである。以前両親が住んでいた区画にも、薪ストーブがある。ちなみに工房は、開設当初は薪ストーブだったが、その後石油ストーブに替えた。理由は、安物のストーブだったので、燃焼が不安定で、火災の危険を感じたからである。

 工房の木工作業で端材が出るので、薪ストーブは欠かせない設備である。もし薪ストーブが無ければ、大量に出る端材を、ゴミとして処分しなければならない。そんな事をしなくて済み、さらに暖房費の節約にもなるのだから、薪ストーブは必須である。

 以前は両親の居住区画で薪ストーブを使っていたので、一冬にかなりの量の薪を燃やした。端材だけでは間に合わなかったので、山林業者から丸太を買い、薪にするのが習慣となった。薪作りは、もっぱら私の仕事だった。

 この春、三年前に買った丸太の薪を、ほぼ使い切った。それで、また丸太を取り寄せた。春に注文を入れておいたのに、一向に届かなかった。二度ほど催促して、やっと届いたのは八月に入ってからだった。電話番のお婆さんが、毎回忘れていたらしい。ほとんど諦めかけていたので、届いたときには有り難いと感じたほどであった。

 2トン車一杯に積んだ丸太の山を、ドサリと地面に下ろして、業者は帰って行った。いわゆる「一発下ろし」の技である。トラックの後ろのアオリを下げ、バックさせて突然ブレーキをかける。すると、一本のワイヤーでくくられた丸太の山は、荷台の後方へ移動して、生き物のように頭を垂れて地面に半身を預ける。次にトラックを前進させると、既に地面に接している部分が抵抗となって、残りの半身を引きずり下ろすのである。ほんの一瞬の出来事で、手際が良い言う言葉がピッタリであった。

 かなりな量の丸太である。これらの全てを、チェーンソーで切って、斧で割って、軒下に積むのだと思うと、いささか気遅れがした。

 松本での展示会が終わった九月上旬から、作業は本格化した。雨の日などを除くほぼ毎日、涼しくなる夕方を狙って、薪作りに精を出した。チェーンソーの目立ては、特に念入りに行った。直径40センチほどの丸太も有ったので、チェーソーの切れ味が悪くては仕事にならない。目立てをした直後の刃は、丸太の中にズブズブと入って行った。

 疲れる作業は薪割りである。上手く一回で割れたとしても、重い斧を振り回すことを繰り返せば、汗だくになる。素性が悪くて、一回で割れない物もある。その率は、三分の一くらいか。そのような代物の取り回しには、ドッと疲れが出た。
 
 連日黙々と作業を続け、出来上がった薪が小山のようになって来た頃、娘が薪割りに興味を示した。やってみたいと言う。危険に対する配慮を伝え、斧を渡してやらせてみたら、思いのほか気に入ったようだった。暗くなるまでやっていた。こんな体験も、良かったかも知れない。

 最後に残った一山の丸太は、遅い夏休みで帰って来た息子が、一気に片を付けた。こちらは凄い若者パワーである。数年前にやらせて、コツを掴んだ技が、今回も大いに役立ったようである。

 割り終わった薪を、軒下に積んだ。量が多いので、結局自宅の周りの四カ所に積み分けた。薪作りを始めてから、一ヶ月以上が経っていた。

 全てを終えたら、何とも言えず充実感が有った。自分が苦労して作った薪を、ストーブで燃やす。それも中々良いものだ。



ーー−10/14−ーー 田舎のモーツァルト音楽祭

田舎のモーツァルトと題された詩がある。詩人尾崎喜八の作である。

  中学の音楽室でピアノが鳴っている。
  生徒たちは、男も女も
  両手を膝に、目をすえて、
  きらめくような、流れるような、
  音の造形に聴き入っている。
  そとは秋晴れの安曇平、
  青い常念と黄ばんだアカシア。
  自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
  新任の若い女の先生が孜々として
  モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。

 この詩にちなんだイベントが、穂高の中学校で、毎年秋に開催される。「田舎のモーツァルト音楽祭」というタイトルのこのイベントは、今年で10回目となった。この詩にちなんだという意味は、この詩の舞台となっている中学が、この穂高の学校だからである。

 意義深いものではあるが、地味なイベントである。これまで続けてこれたのは、尾崎喜八研究会のメンバーをはじめ、多くの関係者の熱意と努力によるものだと思う。

 音楽祭の前半は生徒による演奏と合唱で、後半はゲストの演奏である。今回のゲストは、関西から来た男性合唱団で、尾崎喜八の詩による歌曲を中心に十数曲を披露した。

 音楽祭が終わって戸外に出ると、美しい秋晴れであった。詩人本人がまだ存命で、この場に居合わせたなら、また一つの詩を詠んだであろうか。
 


ーー−10/21−ーー 冬の旅

 
先週の土曜日、穂高の林の中にあるサロン風コンサート会場で、バリトンの吉江忠男氏のリサイタルが行なわれた。昼過ぎ、いそいそと身支度を整えて、家内と二人で出かけた。

 駐車場が満杯で停めるのに手間取り、開始直前に会場に滑り込んだ。定員70名のところ、だいぶオーバーしたようである。最前列の席しか空いてなかったので、そこへ着席した。

 曲目はシューベルトの「冬の旅」全曲。私にとって、この曲を生で全曲聴くのは、初めてのことである。全曲を通すと1時間15分ほど。それをノンストップで歌うと聞いて、ちょっと驚いた。

 演奏が始まった。ほんの2メートルほどの距離で歌われる。その肉薄する迫力は、こういう機会ならではのものだ。もの凄い声量に、直接心臓が揺さぶられて、動悸が高まるような感じであった。間近で見るピアノ、名器ベーゼンドルファーも美しかった。

 吉江氏は、60台半ばのお歳である。私は、声楽家の年齢的な能力について、知識を持たないが、氏よりおよそ10歳若い自分の日頃の体たらくを省みるに、この演奏はたいへん立派なものだと感じた。まず、歌詞を全て暗記しているところが凄い。そして、張りの有る歌声は、1持間を越えて歌い続けても、衰えるどころか、ますます力強く響き渡る。長年に渡る訓練と、日頃の精進によって初めてもたらされる、高い境地なのであろう。プロの音楽家の求道者のような努力、そしてその結果として現れる表現の完成度は、創造的な活動に携わる全ての者の手本である。

 ところで、クラシックの歌曲は何ゆえこのようにダイナミックなのだろうか。「冬の旅」は、恋に破れた男が、失意の内に冬景色の中をさすらうというストーリーである。その悲しみと孤独を、歌手は朗々と歌い上げる。悲しみに暮れているものが、このように声を張り上げて自己表現をするだろうか。我が国の音楽文化の歴史には、このような表現方法は無かったと思う。オペラなどもその最たるものだが、クラシックの本場の国々の音楽表現は、とてつもなく激しい。そのダイナミックさがもたらすカタルシスが、クラシック音楽の真髄なのだろうか。

 このところの暗い世相を反映してか、小説「蟹工船」が大人気だそうである。私は、音楽ファンの間では、「冬の旅」が流行るのではないかと予想する。悲しみ、絶望、孤独に打ちひしがれた者が、自らを責め、貶めながらも、行き会う様々な物に心を寄せ、共感を感じながら歩み続ける。結局希望の光は見えないままであるが、何か心が浄化され、もう一度人生に立ち向かえるような気持ちを起こさせる。これはそんな歌曲である。



ーー−10/28−ーー ミニミニ映像大賞

 NHKが主催する「ミニミニ映像大賞」というのがある。25秒以内の動画のコンテストで、毎回テーマが指定される。第六回目となる今回のテーマは「明日のエコではまにあわない」。

 大学生の息子がこれに応募した。専攻は物理学だが、映画研究会なるものに所属して、これまでもいくつかの小品を作ってきたようである。

 応募総数は1001。その内一次審査を通過したのが74点。息子の作品も合格した。一次審査は局内で行うが、二次審査は映画監督やアートディレクターといった外部の審査員に頼むとのこと。 一次審査の結果を電話で伝えて来たNHKの担当者によると、息子の作品はかなり評価が高かったとのこと。それで二次にも期待が掛かったが、結果は落選だった。二次で残ったのは、12作品だそうである。

彼の作品は→こちら

 息子は電話をかけてきて、二次審査に受からなかったことの不満を述べた。私は以前木工のコンペに落選したときに、ある先生から言われた事をそのまま息子に伝えた。曰く、「コンペというものは、他人が選ぶのだからどうしようもない。受かれば喜べば良いし、落ちたら気にしないことだ」。

 たった25秒間なので、見る側としてはまことにあっけない。しかし、作る側にはそれなりの工夫も苦労もあったらしい。言われて始めて分かるような事も有って、こんなに短い物でも、結構奥が深いと感じさせられた。

 前回までの入賞作品を見ると、だいぶ傾向が違っているので、よく一次審査に通ったものだと思った。それについて息子は、NHKの受けが良いように作ったのだと言った。それなりに分析をして、作戦を立てたそうである。その代わり、受け狙いを優先したために、思い通りにできなかった部分、力を注ぎ込めなかった部分が有ったと。

 私は、それが二次審査で落ちた原因ではないかと思った。息子は、それについては何も言わなかったが、現在感じている不満の根源は、そこに有るように思うと言った。受け狙いは別に悪い事ではないが、それを当人が不純だと感じ、結果として徒労に終わり、それによって大切な物を犠牲にしたと感じた場合は、ダメージが大きい。「お父さんは、作品を作る上で、そのような事はこれまでに無かったか」と聞いてきた。私は、「自分の考えを曲げて品物を作り、後悔をしたことは、幸いなことに今まで一度も無い」と答えた。

 最後に、息子が作品に添えて提出したメッセージを、本人が書いたままの文面で紹介する。

「地球環境をここまで破壊したのは誰か。大人の世代や先進国ではないのか。その環境を壊した張本人達がエコを呼びかけることへの、若い世代や発展途上国の人々が感じる反発心を描いています。ところで、近年のセミの長期に渡る昼夜を問わない鳴き方は異常であると言えます。人の発する熱や光のためです。少年は「うるさい」と言います。それは母とセミに対してなのですが、母の声に対して反発する気持ちは分からなくは無い。しかし、自然からの声にも耳を閉ざしてしまって良いのでしょうか。周りの声から耳を閉ざしていると、いつか本当に静かな世界が訪れてしまうのではないかという危惧を、最後のシーンは表現しています。この作品を見て、エコを呼びかける側も呼びかけられる側も、環境に対して今まで自分が行ってきたこと、これから行わなければならないことを考えて貰えればと思います。なお、タイトルは回文にしてリサイクルを意識してみました」



 
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